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【自分に向き合う】(『シティライフ』平成30年4月14日号掲載)

 噂が好き、人のことを考えるのが好きです。特に自分より大変そうな人のことを…心配しているフリをして、自分はまだ大丈夫と安心します。
 一方で、自分のことを考える、見つめることは大嫌いです。このままで大丈夫だろうかと不安になるからです。だから、自分のことだけど知らん顔を決め込みます。
『あなたはそのままでいいよ』…この言葉が好きです。聞けば何とも言えぬ幸福感に包まれます。自分について考える必要が無くなり、楽になるからです。しかし私がこのままでいい証拠はどこにも見つかりません。
 このままでは心配だからこそ、仏様は私を何とかしてやりたくて、苦悩からの解放(=さとり)をお約束下さいました。仏のすくいとは私の身の事実を我に気付かせ、仏を頼りとさせることで私自身への執着を離れさせることです。私の実体への気付き…それこそが仏教です。仏様の支えの下、自分に向き合ってこそ本当の安心が恵まれます。

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【ぬるくない人生】(弘教寺だより 平成30年4月号掲載)

 イルカは寝込むと溺れてしまいます…冗談ではありません。だから、なんと片側の目を閉じて脳の半球ずつ休ませるのだそうです。
渡り鳥も海上では同じようにして眠るそうです。その一方で、ネコや犬、そして動物園の動物には無防備に腹を晒して爆睡するものがいるようです。私を食べても良いよ…状態です。
安心だから、快適だから、楽だからでしょう…でも、どう考えても変です。自然界ではあり得ない寝相です。かく言う私も仰向けで寝ています。本来なら大事な又弱点の腹側を隠すように丸くなって寝るべきでしょう。この人間の、又人間に保護され、人間色に染まった動物たちの緩(ぬる)さは何なのでしょう。
仏教は緩くない教えです。釈尊も親鸞聖人も、一切の妥協をせずに、とにかく真摯(しんし)に生きたお方です。だからこそ自らが生くべき道を、命賭けて求め抜かれたのです。
私は楽のあまり、楽して仏に成れるような大きな勘違いをしています。私が仏に成るのは仏様のこの上ない御慈悲のおはたらきのお陰です。大切なことは、私の人生は緩くない、緩くないからこそ仏のおすくいが私に告げられた…この事実だけは忘れたくありません。

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【私の願い 仏の願い】(『シティライフ』平成30年3月10日号掲載)

 「私」はこの命をしっかり生きて、人に迷惑掛けず、苦しまずに死にたいと思っています。そうなればよいのですが、将来は全く分かりません。
ただ生きていれば老いていくことは確実です。嫌だなあ…老いは避けたい、でも避けられない。ならば、そこに意味を見出したいと思います。
 老いとは…若く健康であったときには全く気にしていなかった自分の身体の事実に気付くということです。若くて健康な自分が老い衰えていく…それは良し悪しでなく「自己都合を超えた事実」です。病もそうです。病んで初めて「生身の自分の存在」に思いが至り、人生と真剣に向き合う機会が与えられます。
 若く健康な自分とは単に人生の一時期に過ぎません。老いて病んで初めて弱き自分、即ち本当の自分を知らされます。
 そこに仏の願い(慈悲心)との出遇いが恵まれます。仏は私をさとらしめ、苦悩から解放したいのです。それを仏心、また「親心」と申します。

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【究極の平等】(弘教寺だより 平成30年3月号掲載)

 「三隣亡」(さんりんぼう)をご存じでしょうか…この日に起工式等を行うと三軒隣まで滅ぼしてしまうことになるそうで建築関係の大凶日だそうです。でも「三隣亡かつ大安の日」!があるのです。これはどう受け止めれば良いのでしょう。 吉凶…「何となく」気になりますか?
 障がい者、性的少数者、人種等多くの差別が今も存在します。差別が認められるわけはありません。それでも「差別する」ならば、調べ学んで、「根拠」「信念」をもってすべきでしょう。「何となく」差別するなんて、される方はたまったもんではありません。
 阿弥陀仏は、「何となく」私のおすくいを誓われたのではありません。私の心身の全てを見抜かれたが故に私を「必ず」「そのまま」すくう…浄土の仏と仕上げると約束せざるを得なかった仏様です。
 仏の眼差しには、私もあの人も全く同じに映っています。どうしたって心配ですくうしかない、このままでは何ともならない人間だとおっしゃいます。そして、皆が私の一人子だとおっしゃいます。そこには差別という言葉すら存在しません。おはたらきはまず私に届くのですが他の方にも同時です。究極の平等です。

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【死滅無いいのち】(『シティライフ』平成30年2月10日号掲載)

 2月15日は『涅槃会』。釈尊が入滅(逝去)された日です。そのお釈迦様が私達に仏のいのちをお説き下さいました。
「私が死んだら消えて無くなるだけ」とつぶやくお方も、親しい方の死に際し、もう消えた人、後は何も無いとはお考えにならないようです。
 私が仏と生まれさせて頂くのは何故か。我が死の後、遺された者に悲しみや苦悩を与える存在にならぬようにです。また遺された者が自分の苦しい時だけ呼び戻して、願いを叶えてもらおうとする『都合の良い存在』にならぬようにです。
 死んで消えて無くなるのではなく、悲しい、または都合良き存在となるのではなく、おさとりをひらいて、永遠の仏と生まれさせて頂くのです。
 生きとし生くる者、遺されし者を慈しみ愛おしみ、支え続ける仏という存在になる。それが死ということだよ…そんなお釈迦様の教えを頂けたとき、私に安心して死んでいける道が開かれます。死の意味が見出せます。

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【聞くべきは…】(弘教寺だより 平成30年2月号掲載)

 『でもね、努力してても、努力の方向性が違ったらダメ。成功しないの(笑)。同じところを回っているだけ。結局、あなたは何がしたいのか、人生をかけて何がしたいのかが決まらない限り、ビジネスはうまくいかないと気付いた』…とはあのユニクロ・柳井正社長の言葉です。
 仏教がそうだと思いました。私は人生賭けて何がしたいのか? 釈尊も親鸞聖人もそれを悩み苦しみの解決だとおっしゃったお方です。仏教とは正に「悩み苦しみ一切からの解放、即ちさとりを求める」教えなのです。
 ですから、「すくい」や「さとり」を求める気持ちが無く、まあ現状でいいやと思っていらっしゃったら、仏教も寺も全くつまらない、要らないものです。
でも今一度自分というものをしっかり見つめたならば、このままで大丈夫だろうかと思います。老・病・死は待ったなし、どうしても避けることは出来ません。今のところ悩みや苦しみはそれ程でもない…しかしそれは現実・将来から逃げている姿勢としか思えません。
 寺では自分の聞きたい話は聞けませんが、聞いておかなくてはならない話が聞けます。
 生きる為に必要な仏教のお話が聞けます。

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【見えないもの】(『シティライフ』平成30年1月13日号掲載)

 「見えないものを信じ、祈願をするのが宗教」…多くのお方がそう受け止められているようです。
見えないものを信じるかどうかは自分次第、又願いの中身は様々です。そして特徴は願いが叶わなくても構わないこと。単なる気休めとおっしゃるお方が多いのです。
 でも気休めは本当の安心とはなりません。だから一時は安心しても、またすぐに不安に陥ることになります。
  浄土真宗は「見えないものに気付き、感謝をしていく」宗教です。
  私は自分の力で自分の人生を生きていると思いがちです。しかし私は自分で生まれてきたわけではなく、またこの身は自分の思うようにはなりません。私が今存在しているのは当たり前でなく、見えずとも大きなるはたらきの中にある…そう気付かされたとき我が身の有り難さを実感します。そこに仏様という「この私に対する慈悲のおはたらき」との出会いが生まれ、仏様への感謝の日暮らしが始まります。

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【後悔無い人生】(弘教寺だより 平成30年1月号掲載)

 後悔無く命終えてゆきたいと思う…皆さんの本心でしょう。どうすればそれが実現するのかということです。
 『寝て食て 寝て食て 寝て食て……かくて 人間とは 死ぬものなり』とは本願寺第8代宗主・蓮如上人が一休禅師に宛てた手紙といわれています。このままいけば、食べて寝て遊んで、さらに歳老いて具合が悪くなって、病気になり、入院治療…そうこうしているうちに身体が動かなくなり、意識が薄れ、命終えていく…。「新年早々不愉快だ、不謹慎だ」とお怒りになって下さい。笑って読み飛ばされるより、余程有り難いです。
 いや、自分は自分なりに努力し、しっかりと仕事をしてきたからそれなりの地位を得て、財を築くことができた。今は充分満足している…と、おっしゃるならば何よりですが、そんな立派なお方もやっぱり右のような人生の最後を迎えなくてはなりません。お金だって家族だって御浄土には連れ持ってはいけません。
 ならば後悔無い死とは…ただ念仏申す人生から恵まれます。死して消えるのではなく浄土の仏と生まれさせて頂くと信知する。そして、そのことに感謝しつつ生きる人生です。

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【変われない】(『シティライフ』平成29年12月9日号掲載)

 生きているといろいろあります。絶対にあの人が間違っている!…どうあれ他人を変えることは出来ません。「私が変わるしかない」のです。
 事実はそうです。でも変わることが出来ますかか? 努力してもやはり我が思いはこのままです。私が変われるのなら、周囲にいざこざなど起こるはずがないのです。
人も私も変われない…問題は無くならない。絶望するしかないのでしょうか。でも命ある限り私は生きるのです。そんな私が命を全うする為に仏は法を説かれたのでした。
 仏教とは仏法=真理を聞き、頂く教えです。人も私も思うようにはならないと認め、それでも生きていく事実を頂くのです。それ以外の生はないと頂けたとき、この身のまま生き続けることに腹が据わります。
 今後どうなるか分からず、しかもこの身の事実は自らで引き受けざるを得ない。そんな私こそが仏のすくいの対象なのです。そんな私にこそ仏の慈悲が至り届くのです。

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【今の世代の責任】(弘教寺だより 平成29年12月号掲載)

 先日、尊いご縁に恵まれ青葉台小学校6年生の皆さんにお話しをさせて頂きました。
 「讃仏偈」の一部の写経、そして仏教(的)講話、さらに質問をお受けしました。案の定、結婚は? 給料は? 身長は?と、遠慮無くズバズバ!聞かれて変な汗をかきました。
驚いたのは、逆質問で「死後の世界はあると思いますか」に対してほとんどの児童が「あると思う」と答えたことです。「それはどんな世界?」には多く「天国」と答えました。「御菓子で出来ている世界」とはご愛嬌でしょう。
 平成の世を生きる子供達が死後の世界を信じている。現代の子供達は科学で証明できないことなど相手にしないと思っていましたが、そうではありませんでした。予想を超えてはるかに純粋で、そして想像力豊かでした
 2100年を生きて迎える可能性充分の子供達。それがどんな世界なのか、誰にもわかりません。私達大人は「そんな時代にはどうせ居ないから」と笑って済ませてしまいますが、私達には責任があります。多分、今よりはるかに生きることが大変になっている時代を生きる子供達。だからこそ仏様と生き抜く道=仏法をお伝えせねばと思ったことです。

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