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【見えないもの】(『シティライフ』平成30年1月13日号掲載)

 「見えないものを信じ、祈願をするのが宗教」…多くのお方がそう受け止められているようです。
見えないものを信じるかどうかは自分次第、又願いの中身は様々です。そして特徴は願いが叶わなくても構わないこと。単なる気休めとおっしゃるお方が多いのです。
 でも気休めは本当の安心とはなりません。だから一時は安心しても、またすぐに不安に陥ることになります。
  浄土真宗は「見えないものに気付き、感謝をしていく」宗教です。
  私は自分の力で自分の人生を生きていると思いがちです。しかし私は自分で生まれてきたわけではなく、またこの身は自分の思うようにはなりません。私が今存在しているのは当たり前でなく、見えずとも大きなるはたらきの中にある…そう気付かされたとき我が身の有り難さを実感します。そこに仏様という「この私に対する慈悲のおはたらき」との出会いが生まれ、仏様への感謝の日暮らしが始まります。

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【後悔無い人生】(弘教寺だより 平成30年1月号掲載)

 後悔無く命終えてゆきたいと思う…皆さんの本心でしょう。どうすればそれが実現するのかということです。
 『寝て食て 寝て食て 寝て食て……かくて 人間とは 死ぬものなり』とは本願寺第8代宗主・蓮如上人が一休禅師に宛てた手紙といわれています。このままいけば、食べて寝て遊んで、さらに歳老いて具合が悪くなって、病気になり、入院治療…そうこうしているうちに身体が動かなくなり、意識が薄れ、命終えていく…。「新年早々不愉快だ、不謹慎だ」とお怒りになって下さい。笑って読み飛ばされるより、余程有り難いです。
 いや、自分は自分なりに努力し、しっかりと仕事をしてきたからそれなりの地位を得て、財を築くことができた。今は充分満足している…と、おっしゃるならば何よりですが、そんな立派なお方もやっぱり右のような人生の最後を迎えなくてはなりません。お金だって家族だって御浄土には連れ持ってはいけません。
 ならば後悔無い死とは…ただ念仏申す人生から恵まれます。死して消えるのではなく浄土の仏と生まれさせて頂くと信知する。そして、そのことに感謝しつつ生きる人生です。

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【変われない】(『シティライフ』平成29年12月9日号掲載)

 生きているといろいろあります。絶対にあの人が間違っている!…どうあれ他人を変えることは出来ません。「私が変わるしかない」のです。
 事実はそうです。でも変わることが出来ますかか? 努力してもやはり我が思いはこのままです。私が変われるのなら、周囲にいざこざなど起こるはずがないのです。
人も私も変われない…問題は無くならない。絶望するしかないのでしょうか。でも命ある限り私は生きるのです。そんな私が命を全うする為に仏は法を説かれたのでした。
 仏教とは仏法=真理を聞き、頂く教えです。人も私も思うようにはならないと認め、それでも生きていく事実を頂くのです。それ以外の生はないと頂けたとき、この身のまま生き続けることに腹が据わります。
 今後どうなるか分からず、しかもこの身の事実は自らで引き受けざるを得ない。そんな私こそが仏のすくいの対象なのです。そんな私にこそ仏の慈悲が至り届くのです。

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【今の世代の責任】(弘教寺だより 平成29年12月号掲載)

 先日、尊いご縁に恵まれ青葉台小学校6年生の皆さんにお話しをさせて頂きました。
 「讃仏偈」の一部の写経、そして仏教(的)講話、さらに質問をお受けしました。案の定、結婚は? 給料は? 身長は?と、遠慮無くズバズバ!聞かれて変な汗をかきました。
驚いたのは、逆質問で「死後の世界はあると思いますか」に対してほとんどの児童が「あると思う」と答えたことです。「それはどんな世界?」には多く「天国」と答えました。「御菓子で出来ている世界」とはご愛嬌でしょう。
 平成の世を生きる子供達が死後の世界を信じている。現代の子供達は科学で証明できないことなど相手にしないと思っていましたが、そうではありませんでした。予想を超えてはるかに純粋で、そして想像力豊かでした
 2100年を生きて迎える可能性充分の子供達。それがどんな世界なのか、誰にもわかりません。私達大人は「そんな時代にはどうせ居ないから」と笑って済ませてしまいますが、私達には責任があります。多分、今よりはるかに生きることが大変になっている時代を生きる子供達。だからこそ仏様と生き抜く道=仏法をお伝えせねばと思ったことです。

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【無意識】(『シティライフ』平成29年11月11日号掲載)

 私は自分で考え、その考えに基づいて行動しています…そう思っていました。でも、そうでもないようなのです。
冷静に行動しているようでいて、感情に流されることが多いものです。さらにこの感情も、普段は無意識のうちに抑圧して表に出さないようにしているのです。だから些細なきっかけで爆発してしまうんですよね。
 人間は現実に向き合って問題を解決するような面倒事が嫌いです。厳しい現実からは逃げようとするのです。これも実は無意識の行動です。
 無意識の恐ろしさを実感しますが、意識外のことを自分で何とか出来るわけはありません。
 自分ですら何とも出来ない自分を、これからも無意識のまま当て頼りとして生きていきますか? 仏様とは私の無意識なる生き様に気付かしめるおはたらきです。あなたの身の事実に気付いてくれよと願い続けのお方です。無意識の内に自らを、他者を傷付ける私を心配し続けのお方です。

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【悔いなき人生】(弘教寺だより 平成29年11月号掲載)

 たまたま裕次郎さんの『わが人生に悔いなし』を聞く機会がありました。「♪長かろうと短かろうと わが人生に悔いはない~」と歌い上げるあの歌です。『昴(すばる)』『マイウェイ』と共に、上司と一緒の席ではなかなか歌いにくい曲と言えましょう。
 実は阿弥陀様はこの曲のような人生をお勧めになりません。なぜか? 「わが人生に悔いはない」と言いつつその命終えたら格好は良いけれど、「悔いはない」と言う、思いの主体が亡くなれば全てが消えてしまうことになるからです。あるいは、「悔いはいろいろあるけれど、言うのは悔しいから、悔いはないと自分に言い聞かせ、思い込ませるんだ」…そんな命の終わり方をして欲しくないからでした。
 「別に自分が満足すれば、それで良いんだ…」と強がる私に、阿弥陀様は「そんな寂しいこと言うなよ」(言葉遣いが乱暴で申し訳ありません)とおっしゃいます。悔いがあろうと無かろうと、長寿だろうと短い命であろうと、あなたを「死」で終わらせないが仏の誓いです。この命を無量寿の仏と生まれさせて下さる…なぜか? それだけ私のことが心配なのです。『私の仏様(親様)』だからです。

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【念仏は感謝】(『シティライフ』平成29年10月14日号掲載)

 生きるために大切なことは「感謝」です。感謝の出来る人格こそ、仏様が私に求めるものです。
ただ感謝は簡単にはできません。「全てが当たり前」の中で生きている私には気付きが必要です。「え、私の為?」「私を思ってくれたんだ」…そんな経験こそが私に感謝を教えて下さいます。
 自分中心の考えしかない私が他者の恩恵に気付くのは難しいことです。そんな私が気付くようにと、仏様は南無阿弥陀仏(念仏)の形で私に慈悲を、温もりを与え続けます。
 仏様が私を思っていて下さる。南無阿弥陀仏という六文字に、仏の私を大切に思う心の全てが込められているのだと頂きます。そんな仏様の尊いお慈悲の御心を受け取れたときに、私に感謝の心が生まれます。その心が他の人を思う心へと伸張していくのです。
 念仏には仏様有難うございますの感謝の意味も込められています。私に念仏申させ、「感謝できる真人間になってくれよ」が仏様の願いです。

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【唯一の仏様】(弘教寺だより 平成29年10月号掲載)

 「仕事のできない夫を支える出来た妻」…TVドラマの話です。フレーズにハッとしました…夫の名字が同姓・小林だったから?…いいえ。
 かつて、あまたの仏様が私達に仏と生まれる道(修行法)をお説き下さいました。この修行により必ず無上のさとりをひらくことができるぞと…。でも、仏様方はあまりに勝れたお方々だったのです。だから「待てよ、もしかしたら修行の出来ない者がいるかも知れない…、いやそもそも修行など全く興味のない者もいるかも知れない」…そう気付かれた仏様は唯一、阿弥陀仏だけだったのです。
 阿弥陀様は仏様のお一方です。でも仏様の中では「出来ないヤツ」の気持ちがわかる唯一無二の仏様なのでした。
  社会では、仕事のできない人間は要らないよと言われます。人間関係が上手く結べないと「面倒くさいヤツ」と判断されます。でもそんなあなたを私は見捨てられないよとおっしゃる仏様が阿弥陀仏なのです。私から離れない、離れられない御仏です。ドラマでは『可哀そうで可愛い私の夫』なのだそうですが、阿弥陀様から見れば、「夫」は「一人子」となります。私のことです、そしてあなたのことです。

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【受け止める力】(『シティライフ』平成29年9月9日号掲載)

 ネガティブ・ケイパビリティ(N・C)とは「出来ない状況を受け止める能力」のことだそうです。
 何でも出来るときには、また出来そうだと思っているときはN・Cが未熟です。でも、大丈夫。あなたにも必ずこの力を磨くチャンスが訪れます。それが老いであり、病であり、死なのです。
 老病死に限らず、私が直面する問題は簡単には答えが出ないことばかりです。結果、自らでは解決出来ず、そして消えもしない重い問題を抱えて生きていくことになります。正にN・Cが問われ続けるのが人の一生だと言えるでしょう。
  仏は私自身の問題を全て明かし、その上で私がこの命終えるまで、いえ終えて後まで私を支え続け離れないとお誓い下さいます。その誓いこそが私のN・Cとなるのです。
 私は全く無力であり、だからこそ仏のすくいを受け取れる…そこに私の生きていける道が開かれます。すくいを頂かなくとも仏はまします…見捨てることのないお方です。

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【喜びあふれる寺って…】(弘教寺だより 平成29年9月号掲載)

 西原祐治氏の御法話(趣意)より…。
 「一番弱い『死につつある子』が周囲を変えていく…弱さが人々に思考を、恵みを与えていく。弱さををありのままに認めていくことを大切にしたい。そこから自分を支えてくれている存在や、既に恵まれている事実が見えてくる。しかし、人は自分の弱さを直視することが苦手である。弱い自分をさらけ出すためには弱い自分を肯定してくれる場、肯定される考え方が必要なのだろう…」
 皆それぞれが悩みや苦しみを抱えて生きています。でも、それらが表面化することは滅多にありません。「弱い自分は見せたくない。笑われたくない。同情されたくない。強くありたい。強くなれるはずだ。今の『こんな自分』は本当の自分ではない」そういった思いを捨てられないのです。だから今の弘教寺は『笑顔で溢れて』います。お寺が自分の本当の気持ちを明かせる場所ではないからでしょう。
 お辛い方にこそ御足お運び頂きたいのです。ご無理ならばお呼び立て下さい。お寺は、いえ弘教寺はずっと弱さを肯定する場であり続けたいと思います。さらけ出し、泣きはらした後の笑顔こそが最も輝きます。

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