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【今、有り難う】(『シティライフ』平成29年2月11日号掲載)

 「今まで有り難う」…涙ながらのご遺族のお声です。別れは悲しいものですよね。
 「今まで」ではなく「今、有り難う」そして「これからもよろしくね」と言えた方がうれしいのです。そんな思いは故人様が仏様と成られ、既に仏様として私のところに還って来て下さっていると私が受け止められたときに生まれます。
 「そう思えというのが仏教か?」…ご批判はあるでしょう。でも、故人様は「死亡」され、もう存在しないということを素直に受け止められますか。「私は最後まで自分を頼りに生きるんだ」宣言が出来ますか。老病死からどうにも逃げられないこの身であるのに。
 死んで亡くなるのではなく、浄土の世界に『往』きて仏と『生』まれるから「往生」と申します。その方が遺された私はうれしいし、生き易い。その事実を見抜いたお方を仏様と申します。私に往生成仏を明かし、そのことを受け止めさせるのも全て仏のはたらきなのです。

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【たすけは、たすからない私の為に】(弘教寺だより 平成29年2月号掲載)

 シラサギが交通量の多いアスファルト道路上に立ち尽くしており、私も他の車と同じく除けて通行しました。多分あと何時間も生きてはいなかったと思います。残酷ですね…これが人間であったら大問題です。
 ヒトは「人」になりました。「人間園」を作りその中で生きることにしました。必要不可欠な食を含めて助け合って皆で生きることを選択したのです。全ての人の生きる権利を認めたのです。だから困っている人がいたら助けなくてはなりません。自分も困ったら人に助けてもらいたいと思います。助け合わねば助からない、生きていけない生物が人です。もう単なるヒトという種の動物ではないのです。
 でも人にも他の人を助けられないことがあります。老いや重い病、そして死です。他人には手出し出来ない苦悩に沈む、そんな私を助けると誓って下さったのが阿弥陀仏です。浄土に迎え仏とせしめる、ゆえに我に任せよとおっしゃいます。助けるのは助からない私の存在を見抜かれたからです。阿弥陀仏にお任せとは私は何ともならないことを素直に受け止めたところです。助かるとは阿弥陀仏のおすくいに出遇えた姿です。理屈ぽいですか?

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【聞く・聴く】(『シティライフ』平成29年1月14日号掲載)

 「人の話を素直に聞く」…出来そうで出来ないことの一つです。私は自分の知識・経験で物事を聞き分けます。だから、自分の価値判断力を超えた事柄は「あり得ない」として、受け入れることを拒絶するのです。これが私の聞く態度です。
もちろん現代社会で全てを鵜呑みにしていては、情報過多で混乱してしまいます。正しい情報こそが大切です。
 ただその状態では、正しいかどうか判断出来ない情報は全て排除するしか無くなります。例えば自分の死後の世界。否定するだけでは死はわからないまま不安なまま。その状態で死ぬのなら苦悩は避けられません。
 「浄土」の世界は知識として理解するのではなく、なぜ釈尊がそのような世界を説かれたのかに思いを致すことが大切です。考えても仕方ないが、結局向き合わざるを得ない自らのいのちの大問題。今年はその問題へのチャレンジ元年としませんか。「仏法御聴聞」元年にしませんか?

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【仏様を知るとは…】(弘教寺だより 平成29年1月号掲載)

 今年こそ、仏様というものがわかるかな…年頭にそう願ったお方もおみえでしょうか。
 仏・浄土がわからないのは死ぬ気で生きていないからかも知れません。今が幸せで、この状態が続いていくのかなと思えば仏様なんて用事がないでしょう。厳しい表現お許し下さい。
 様々な問題を少しでも減らそうと頑張って来た私達。もちろん問題無い暮らしなどありませんが、甲斐あって少しずつでも問題は減ってきているのかも知れません。問題が減れば苦悩から生じる問いも減ります。問いが減れば答えは要らなくなるということです。
 浄土真宗の答えは仏になることです。悟りをひらき、悩み苦しみから解放されることです。永遠の命を戴き、老病死の苦を離れることです。今現在の私にはそのような苦しみがしっかり備わっていることに気付くことから問いが生まれ、成仏という答えの尊さ・有り難さが身に染みます。
 仏に生まれるとは、自身のとらわれからの解放です。執着心・こだわり故、自身で抱え込んでいる悩み苦しみを捨て去ることです。出来るだろうか…まずは仏道を歩んでみましょう。浄土真宗ではそれを聴聞と申します。

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【御遺影】(『シティライフ』平成28年12月10日号掲載)

 お仏壇を求めず、お写真(御遺影)を飾ってお参りされておられるお方は多いと思います。しかしその行為を坊さんは嫌います…なぜでしょう?
 御遺影に対し、何らかの問いかけをしたとします。御遺影は親しいお方でしょうから、その問いを否定されることはありません。あなたの悩み苦しみを受け止めて下さいます。ただ、それが自己肯定・他者否定に繋がる可能性があります。御遺影を用いて、自分の思いを正当化する行為を「お参り」と称しているだけかも知れません。故人様を偲ぶならアルバムを開いて下さい。御遺影は私の思いを満たす神秘的存在ではないのです。
 礼拝の対象は、私の命の在り方までを問うことの出来る存在であって欲しい。私の全肯定ではなく真実を教えて下さるお方、帰依することで私に往くべき正しい道を明らかにして下さるお方であって欲しい。だからこそ御仏様を礼拝致しましょう。仏様との出遇いを果たした我が姿にこそ、故人様が微笑まれます。

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【食の問題】(弘教寺だより 平成28年12月号掲載)

 ノーベル平和賞といえば、かつてマザーテレサが受賞されましたね。賞金はインドの貧しい方々の為に受け取られました。「このお金でいくつのパンが買えますかね」がその感想だったそうです。では、もしお釈迦様なら受賞されたでしょうか…どうなのでしょう。
 釈尊の教団では食事は各自が村まで托鉢に出掛けて、施しを受けたようです。生命を保つに十分な食を得たなら、それ以上受けることはなく村を出るのだそうです。
 でも、例えば兄弟子が病気で動けなかったらどうしたのでしょう。その方の分まで頂くのでしょうか。もしそのお方が他の方の托鉢で食を済まされていたら。いや、そもそも食べられる体調でなかったら…施しを捨てるのか。それは許されるのか。難しい問題ですね。
私達も今、食の問題を考えるべきだと思います。自分には今十分な食べ物がある。又食べ物を手に入れるに十分な金銭がある。ならば、自分が食べる以上の分は他の食事に困っておられるお方に施しませんか。近所でも日本でも世界でも…皆が同じように考え、行動したら皆が食べることが出来、皆で生きていけると思います。争いも根絶出来ると思います。

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【柔軟心】(『シティライフ』平成28年11月12日号掲載)

 当寺では、私と坊守は浄土真宗の僧籍を持っております。共に同じ信仰であるということです。ですから、夫婦げんかなど一切ありません…そんなわけはありません。
 世界中の篤信の家庭では、皆同じ信仰であるからこそ互いを認め、許しあって仲良く暮らしているのでしょうか? 実際どうなのかは私には分かりません。
 宗教は基本的に自らのすくいを求めるものです。家族ではあってもすくいはそれぞれです。皆それぞれ別な人生を生きている現実があるからです。私には私の、坊守には坊守の思いがあります。だからこそぶつかり、苦しみが生まれます。
 阿弥陀仏はそんな私達を何とかしてやりたいと願われました。同じ信仰ならば皆が笑顔で暮らせるはずなのに、実際そうなっていない私の為の御仏です。私こそしっかり信仰しているという頑なな我が心を離れさせ、お恵み下さる柔軟心。互いが和して暮らせるようにと仏より賜る御心でした。

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【浄土真宗の本質】(弘教寺だより 平成28年11月号掲載)

 最近、他の浄土真宗のお寺さんのブログなどを拝見して、気になったのは…「自身が経験した超常現象を語る」。それが浄土真宗の教え・信仰と結びついているとは書かれていませんが、読めば、「やっぱり、そういった不思議なことはあるんだ。宗教ではそういう経験をしないと本当じゃないんだ」と感じさせるのです。また信仰が深まっていくことで阿弥陀様を「ゲット」されたような感覚をお持ちの御僧侶もみえます。「仏との一体感。仏という存在が遂に分かった・つかんだ感覚」が文面に滲み出ているのです。
 浄土真宗では、超常現象はもちろん、信仰によって『阿弥陀様を信じられるようになる』とも言いません。私に何かの現象・変化を起こす、又それを期待する教えではないのです。 私はやっぱり不平不満ばかりで、歳も取ったし、身体も衰えて病気がちの体を持つ私です。『そんなあなたをそのまますくう』とおっしゃる阿弥陀仏のおすくいをお聞かせ頂いて、「私はこのままで良かった」ではなく、「このまますくわれていくしかない、他にすくいのない私」であると気付かされていく。それが浄土真宗です。ここがそのおすくいの「要」です!

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【穴掘って又埋める】(『シティライフ』平成28年10月8日号掲載)

 意味がよくわからない作業ですが、経済政策上ではアリだそうです。お金が動きますから…。
 馬鹿げてると切り捨てますか? 試しに自宅の庭に穴を掘ったとします。もちろん危ないですから怖い思いをします。その穴を埋めると、危険が去って良かったと思うのです。実際は作業の前後で庭には何の変化も無い…でも幸せな気分になる。幸せは苦しみとセットなのです。これが私の感じる幸せの正体です。
 「苦ありてこそ幸せを感ずる」…幸せを求める私は、だから「苦」を手放そうとしません。
 幸せ感覚は麻痺しやすいのに、一方で苦しみを感じ続けることは可能です。私は苦に敏感で苦を増やしたり、形を変えることは得意だからです。
 実は苦も幸も自分の感覚でしかない。だから仏様でもそこは手出しが出来ないとお嘆きです。しかし仏であるが故に、我が苦痛はそのまま仏の苦痛となるのです…故に私の苦を除いてやりたいと願い詰めの御仏でした。

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【御念仏クイズ】(弘教寺だより 平成28年10月号掲載)

 ちょっとしたクイズを一つ、「人生には必ず(?)がついてくる。本当だねえ…」
 カッコにはどんな言葉を入れましょうか。正解は一つじゃありません。御自分の実感で選んで頂ければと思います。
 台風や豪雨、地震等の災害に出遭われたお方は『災難』でしょうか。また身体の衰えを感じたお方は『老い』を選択されたかも知れません。また、ご結婚や苦労が報われたお方などは『幸せ』の言葉を入れられましたか。
 じゃあ、私なら…そうですね、『おすくい』でしょうか。あら、優等生的お答えだこと…そんなお声が聞こえてきそうです。
 このクイズを阿弥陀先生(…失礼な表現かも知れません)が出題したら、と想像してお答えしました。おすくいとは、私を浄土の仏に仕上げることであり、その手立ては全て阿弥陀様が先に仕上げて下さっています。
 「どうにもならん。だからこそ、どうあってもすくう」…阿弥陀様の私への見方は一方的で、ある意味強引です。それもこれも我の煩悩の奥深さ、救われ難さのせいでした。「必ずすくう=私はどうあっても墜ちるゆえ」と頂けた時、おすくいが他人事で無くなります。

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