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【御遺影】(『シティライフ』平成28年12月10日号掲載)

 お仏壇を求めず、お写真(御遺影)を飾ってお参りされておられるお方は多いと思います。しかしその行為を坊さんは嫌います…なぜでしょう?
 御遺影に対し、何らかの問いかけをしたとします。御遺影は親しいお方でしょうから、その問いを否定されることはありません。あなたの悩み苦しみを受け止めて下さいます。ただ、それが自己肯定・他者否定に繋がる可能性があります。御遺影を用いて、自分の思いを正当化する行為を「お参り」と称しているだけかも知れません。故人様を偲ぶならアルバムを開いて下さい。御遺影は私の思いを満たす神秘的存在ではないのです。
 礼拝の対象は、私の命の在り方までを問うことの出来る存在であって欲しい。私の全肯定ではなく真実を教えて下さるお方、帰依することで私に往くべき正しい道を明らかにして下さるお方であって欲しい。だからこそ御仏様を礼拝致しましょう。仏様との出遇いを果たした我が姿にこそ、故人様が微笑まれます。

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【食の問題】(弘教寺だより 平成28年12月号掲載)

 ノーベル平和賞といえば、かつてマザーテレサが受賞されましたね。賞金はインドの貧しい方々の為に受け取られました。「このお金でいくつのパンが買えますかね」がその感想だったそうです。では、もしお釈迦様なら受賞されたでしょうか…どうなのでしょう。
 釈尊の教団では食事は各自が村まで托鉢に出掛けて、施しを受けたようです。生命を保つに十分な食を得たなら、それ以上受けることはなく村を出るのだそうです。
 でも、例えば兄弟子が病気で動けなかったらどうしたのでしょう。その方の分まで頂くのでしょうか。もしそのお方が他の方の托鉢で食を済まされていたら。いや、そもそも食べられる体調でなかったら…施しを捨てるのか。それは許されるのか。難しい問題ですね。
私達も今、食の問題を考えるべきだと思います。自分には今十分な食べ物がある。又食べ物を手に入れるに十分な金銭がある。ならば、自分が食べる以上の分は他の食事に困っておられるお方に施しませんか。近所でも日本でも世界でも…皆が同じように考え、行動したら皆が食べることが出来、皆で生きていけると思います。争いも根絶出来ると思います。

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【柔軟心】(『シティライフ』平成28年11月12日号掲載)

 当寺では、私と坊守は浄土真宗の僧籍を持っております。共に同じ信仰であるということです。ですから、夫婦げんかなど一切ありません…そんなわけはありません。
 世界中の篤信の家庭では、皆同じ信仰であるからこそ互いを認め、許しあって仲良く暮らしているのでしょうか? 実際どうなのかは私には分かりません。
 宗教は基本的に自らのすくいを求めるものです。家族ではあってもすくいはそれぞれです。皆それぞれ別な人生を生きている現実があるからです。私には私の、坊守には坊守の思いがあります。だからこそぶつかり、苦しみが生まれます。
 阿弥陀仏はそんな私達を何とかしてやりたいと願われました。同じ信仰ならば皆が笑顔で暮らせるはずなのに、実際そうなっていない私の為の御仏です。私こそしっかり信仰しているという頑なな我が心を離れさせ、お恵み下さる柔軟心。互いが和して暮らせるようにと仏より賜る御心でした。

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【浄土真宗の本質】(弘教寺だより 平成28年11月号掲載)

 最近、他の浄土真宗のお寺さんのブログなどを拝見して、気になったのは…「自身が経験した超常現象を語る」。それが浄土真宗の教え・信仰と結びついているとは書かれていませんが、読めば、「やっぱり、そういった不思議なことはあるんだ。宗教ではそういう経験をしないと本当じゃないんだ」と感じさせるのです。また信仰が深まっていくことで阿弥陀様を「ゲット」されたような感覚をお持ちの御僧侶もみえます。「仏との一体感。仏という存在が遂に分かった・つかんだ感覚」が文面に滲み出ているのです。
 浄土真宗では、超常現象はもちろん、信仰によって『阿弥陀様を信じられるようになる』とも言いません。私に何かの現象・変化を起こす、又それを期待する教えではないのです。 私はやっぱり不平不満ばかりで、歳も取ったし、身体も衰えて病気がちの体を持つ私です。『そんなあなたをそのまますくう』とおっしゃる阿弥陀仏のおすくいをお聞かせ頂いて、「私はこのままで良かった」ではなく、「このまますくわれていくしかない、他にすくいのない私」であると気付かされていく。それが浄土真宗です。ここがそのおすくいの「要」です!

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【穴掘って又埋める】(『シティライフ』平成28年10月8日号掲載)

 意味がよくわからない作業ですが、経済政策上ではアリだそうです。お金が動きますから…。
 馬鹿げてると切り捨てますか? 試しに自宅の庭に穴を掘ったとします。もちろん危ないですから怖い思いをします。その穴を埋めると、危険が去って良かったと思うのです。実際は作業の前後で庭には何の変化も無い…でも幸せな気分になる。幸せは苦しみとセットなのです。これが私の感じる幸せの正体です。
 「苦ありてこそ幸せを感ずる」…幸せを求める私は、だから「苦」を手放そうとしません。
 幸せ感覚は麻痺しやすいのに、一方で苦しみを感じ続けることは可能です。私は苦に敏感で苦を増やしたり、形を変えることは得意だからです。
 実は苦も幸も自分の感覚でしかない。だから仏様でもそこは手出しが出来ないとお嘆きです。しかし仏であるが故に、我が苦痛はそのまま仏の苦痛となるのです…故に私の苦を除いてやりたいと願い詰めの御仏でした。

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【御念仏クイズ】(弘教寺だより 平成28年10月号掲載)

 ちょっとしたクイズを一つ、「人生には必ず(?)がついてくる。本当だねえ…」
 カッコにはどんな言葉を入れましょうか。正解は一つじゃありません。御自分の実感で選んで頂ければと思います。
 台風や豪雨、地震等の災害に出遭われたお方は『災難』でしょうか。また身体の衰えを感じたお方は『老い』を選択されたかも知れません。また、ご結婚や苦労が報われたお方などは『幸せ』の言葉を入れられましたか。
 じゃあ、私なら…そうですね、『おすくい』でしょうか。あら、優等生的お答えだこと…そんなお声が聞こえてきそうです。
 このクイズを阿弥陀先生(…失礼な表現かも知れません)が出題したら、と想像してお答えしました。おすくいとは、私を浄土の仏に仕上げることであり、その手立ては全て阿弥陀様が先に仕上げて下さっています。
 「どうにもならん。だからこそ、どうあってもすくう」…阿弥陀様の私への見方は一方的で、ある意味強引です。それもこれも我の煩悩の奥深さ、救われ難さのせいでした。「必ずすくう=私はどうあっても墜ちるゆえ」と頂けた時、おすくいが他人事で無くなります。

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【おすくい】(『シティライフ』平成28年9月10日号掲載)

 「すくい(救済)」と聞くと、何らかの抵抗がある方は多いでしょう。
 宗教は心の弱い人間の逃げ道であるといった受け止め方もあるようです。そもそも「すくい」とは何でしょうか。
 仏教のすくいは仏に成ることです。そして仏とは覚者=真理に目覚めた人をさします。本当のことに気付いた人という意味です。本当のことを一番知りたい対象は、皆が皆「自分自身」です。すくいとは自分自身に向き合わせ、自分自身の本当の姿を知らしめることであると申せるのです。
 自分の姿、即ち自分の心・身体は不確かでどんどん変わっていきます。何ともしようがないようです。「おすくいにあずかった。もう大丈夫」ではなく、「私は何ともならない。だからおすくいにあずかるしかない」というのが浄土真宗のすくいの受け止め方です。
 『どうにもならないあなたをこそ、どうしても見捨てられぬ仏様』…この事実を聞き続けていくのがお念仏の道です。

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【御念仏を頂く】(弘教寺だより 平成28年9月号掲載)

 今一度、御念仏をしっかり頂きませんか。どうも「ずっと仏法御聴聞を続けていくと御念仏が信じられるようになり、そのことで人生を楽に生きられる。それこそが寺参りの目的だ」…そんな受け止め方があるようです。まるで「念仏が『私は大丈夫だ』の呪文だと確信出来るまで続ける努力」かのように…。
 「我に任せよ 必ずすくう」が阿弥陀仏のおはたらきですが、どうも私達は忘れっぽくて、後の必ずすくうだけを喜ぶ傾向があるようです。今後は順番を入れ替えて「必ずすくう 我に任せよ」と頂かなくては…。「すくわれるから大丈夫」ではなく、「すくわれるから阿弥陀仏にお任せだ」とのお味わいです。
 「阿弥陀様は必ずすくって下さるんですね。有り難いですね」…どこも問題無い受け止めであるようで、おすくいを自分の安心にすり替えているように感じます。有り難いという自分の感想などは阿弥陀様にとってはどうでもよくて、『全部お任せですね』と頂く姿を喜ばれる仏様です。私の思いを大事にするのではなく、その我が思いを離れていく…それがお任せした姿であり、そこに自己への執着を離れた真の人生が恵まれます。

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【悩み相談】(『シティライフ』平成28年8月13日号掲載)

 僧侶が悩み相談をお受けする「ハスノハ」というサイトで偉そうに回答させて頂いております。
 世には本当に多くのお方が、様々なことで悩んでおられることを実感します。そして回答に対し有り難うございましたという御礼を頂くとこちらもうれしくなります。
ただ、有り難い気持ち=安心は賞味期間が極めて短いのです。またすぐに不安で、不幸な気持ちに戻りがちです。
仏教は自分が安心を得るために用いる道具ではありません。安心を求めるのではなく、「安心を求める心を手離す」ことを教えるのです。
「私は私で良かった」…かどうかはわかりません。でもともかく「私は私で生きていかなくてはならない」のが現実です。
人生は厳しいです。しっかり生きよと言われ、自らもそう思う…でも出来ない。出来なくて良いよと御仏はおっしゃらないけれど、ただ不安でどうしようもない私に寄り添って下さる。そのおはたらきを「仏」と申します。

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【会館竣工 感謝…】(弘教寺だより 平成28年8月号掲載)

 この寺報がお手元に届いた頃には、「もんしんと会館」はほぼ完成しているかと思います。関係者の方々が夏の暑い中クーラーを付けずに工事をして下さっておられました。今現在は外構の工事をして頂いています。
思うのです…この世で一番偉いのは「つべこべ文句言わずに生きている人」なんだと。辛いけれど、嫌だけれど、面倒だけど、でも自分の勤めをしっかり果たしている人のことです。
 普段は気付かない「縁の下の力持ち」こそがこの社会を支え、動かしているのです。本願寺の食前のことばに「多くのいのちとみなさまのおかげにより、このごちそうをめぐまれました」とあります。まさにその通りです。
 もんしんと会館は皆様方の御懇念により建設されました。住職は一本の釘も打っておりません。それでも、多くのお方の尊い御志と御力・汗水によって完成致します。
 我が苦悩を無くすことは簡単には出来ませんが、会館があれば悩みを語って頂くことが出来やすくなる、苦しみを分かつことでお心が軽くなるかも知れない…。どうか会館にお越し頂き、何でもお話し下さい。そして何より仏様の願いを聞かせて頂きましょう。

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