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【結論】(『シティライフ』平成29年7月8日号掲載)

 法話会にて「法話に結論はないんですか」というお声を聞きました。結論は「お念仏申しましょう」ということだけです。
 求める結論とは何でしょう。「神仏にこう頼めばこうなるから大丈夫」ということでしょうか。
 もし宗教によって自分の願いを叶えられたなら…嬉しい。でも、引き換えに『巨大な見えない力』を当てにして生きる、いえその力に従順に生きることを強制されます。とても恐ろしいことです。
  「念仏申す」とは巨大な力を当てにすることではなく、自分が当てにならないと気付いた姿です。老病死丸抱えのこの私は何ともならない。しかし、何とかなると思い込んでいる私には「この身の不都合な真実」に気付くことは出来ません。これでは苦悩が深まるばかりです。
 その事実に気付かせ、受け入れさせるはたらきを仏と申します。念仏申すとは仏を仰ぐことで我への執着を離れる行為です。無条件にすくわれるほか我の生く道無しと頂くことです。

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【泣いて下さるお方】(弘教寺だより 平成29年7月号掲載)

 「自分が死んだときに本気で泣いてくれる人はいるだろうか?」と心配になることはありませんか。「そんな人いないよ」とおっしゃるかもしれませんね。ならばハッキリと申させて頂きます。「それでよく生きていられますね」と。毒気強過ぎかも知れませんが…。
 「いない」って誰が決めたのですか? 御自分ですよね。「自分で、自分が死んだときに悲しむ人はいないと決め付ける」…こんな寂しいことはありません。正に生きながら死んでいる人生ですよね。
「生きている人生」を送りましょうよ。その為には「あの人が死んだら大泣きしそうだ。いや、病気になっただけで自分が変になってしまう」というお方と出遇うべきです。そのお方は夫婦、親子とは限りませんね。そんな人との出遇いが大切で、又そんな人間関係を築く不断の努力が欠かせません。
 「世界中の誰も泣いて下さらなくても阿弥陀様は私の為に泣いて下さる」のは本当ですが、その真意は「阿弥陀様は私が人生の本当の味方に出遇えるまで私を諦めない、見捨てない」ということです。私の寂しさを真正面から受け止め、生きる力を与えて下さいます。

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【「余生」って…】(『シティライフ』平成29年6月10日号掲載)

 88才の芸術家・草間彌生さんが、残された人生は平和を訴える作品作りに遣いたいとおっしゃっておられました。
「もうこの歳になりましたので」…とおっしゃる方がみえます。だから難しいこと大変なことには関わらず、静かに過ごそうとする…「さとったような」感じですか。いいえ、「さとり」と「さとった風の面倒くさがり」は全くの別物です。
 私達は生きている間にさとることは出来ないのです。ならば、精一杯「あがき」ましょうよ。やりたいこと、出来そうなことに挑戦しましょうよ。 それは煩悩ゆえかも知れません。でもそのことで人様のお役に立てる、喜んで頂けるなら本当に嬉しいと思うのです。さとれない身だからこそ煩悩を離れず、でもその煩悩ありてこそ私に出来ることがあります。
 出来ることは、今やるしかありません。いのちの問題は阿弥陀様にお任せして、我が身は安心して精一杯活動して(生きて)いきましょうよ。

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【ウワサ話】(弘教寺だより 平成29年6月号掲載)

 私達(『達』とさせて下さい)の好きなものは『ウワサ話と人の悪口』でしょう。『そんなものは下らん。私は噂とか悪口とかが大嫌いだ』とおっしゃるお方も、他人が自分のことをどう語っているかは気になるんじゃありませんか…それはやっぱり「好き」な証拠なんですよ。
 噂や悪口は、当人のいないところで話されます。だからこそ真偽ははっきりしないままで、話す側の主観的、一方的なものです。
 一番の問題点は、「噂や悪口には自分が入っていない。自分は問題にならない」ことです。世の中で一番大切なのは自分でしょう。その自分のことを語らずして、考えずして、他人の話に花を咲かせて一体どんな意味があるでしょう。私の生きられる時間は限られています。噂・悪口からは全く何も生み出されません。単に無駄な時間でしかありません。
親鸞聖人は「悪性さらにやめがたし こころは蛇蝎(へび・さそり)のごとくなり」と御自身を深く見つめおっしゃいます。この「他人の噂好きで、自分の噂は大嫌い」の、自己中心のこの私こそが阿弥陀様のおすくいの目当てなのです。私をすくうと誓われて仏となられた阿弥陀様の尊いお約束が今私に有効なのです。

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【仏に照らされる】(『シティライフ』平成29年5月13日号掲載)

 ご先祖や想い出尽きぬ故人様は大切でも、仏様とか言われるとピンとこない…ですか?
 中でも浄土真宗の仏様=阿弥陀仏は私達の願いを叶えては下さらない仏様です。そんな仏は無意味、そんな仏は要らない…そうお感じになるかも知れません。
 仏教は宗教です。宗教は私が生きるための教えです。仏とは、自分の願いを押し付け、私の言うことを聞かせる道具ではありません。
 私には仏が見えません…でもそれ以上に見えていないのは我が姿です。
仏は私を照らします。そして私自身を明らかにして下さいます。照らし出された素の自分に向き合うことはとても辛い…でも、それ以外に自分の本当の姿、歩むべき道を知る方法はありません。自分から逃げずに、為すべきことは為す。ある意味「当たり前の人生」の後押しをして下さるのが仏様です。仏の慈光の中こそは、自分が素直になり、自分の人生を見つめ直せる場所なのです。

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【往生したけりゃ…】(弘教寺だより 平成29年5月号掲載)

 『大往生したけりゃ 医療とかかわるな』(医師/中村仁一氏著)という本が出版されました。中身が過激です。「世間での様々な取り組みは結局『弱っても死ねない身体作り』をしているだけ。そして誰もが「ピンピンコロリ」を願うが、それは1等7億円のジャンボ宝くじに当たるより難しい」「ぼけの完全な予防法は『ぼける前に死ぬこと』」「長寿地獄…『長生きはつらい』と知っていますか」「高度な医療は重度の障害者をつくる」…もう、誰もが聞きたくないことのオンパレードです。
筆者の結論は御本を御読み頂くとして、ならば浄土真宗の御教えを頂く私達はどう生くべきか…答えは一つです。「念仏申して仏と生まれさせて頂く人生を歩むこと」です。
 拍子抜けですか。そのお気持ちの裏側にはそんなことでは情けない。念仏などに頼らず、自分で今後の人生をしっかり生きていかなくてはならない…という決意が見えます。自分の身は自分で何とかすべきもの、いえ、何とかなるものという思いが見えます。
 この身は自分の思いで何とかなるものではないことを教えるのが仏様…だから『往生したけりゃ 仏法にこそかかわれ』が正解です。

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【チャンス到来】(『シティライフ』平成29年4月8日号掲載)

 希望に溢れる春到来!…にも関わらず気分は憂うつ。環境変化によるストレスや、自律神経の乱れからくる「春うつ」という病気もあるそうですからご注意下さい。
 春は楽しみ以上に不安で心配だ…どうかピンチこそチャンス(機会)だと前向きに受け止めてみてください。様々なことを考える、変える、見直す。それが出来る時節なのです。ピンチだと思えば弱気になりがちで、他の人の意見や占い等に頼ってしまうということもあるかも知れません。でもそれではせっかくの、御自身に恵まれた選択のチャンスを潰してしまうことになりかねません。
 人生に失敗は付き物。いえ失敗すらも糧となるからこそ、失敗だと思わなくて良いのです。当たって砕けろ…です。
「乗り越えられない試練が与えられることはない」…この言葉の真偽はあなたが決めるのです。仏様はあなたのピンチ・チャンスにずっとご一緒です。人生に安心を与え続けて下さるお方です。

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【僧侶の悩み】(弘教寺だより 平成29年4月号掲載)

 僧侶として仏教者として最近考え込むことがあります。浄土真宗は聞法の宗教であり、「ただ仏法は聴聞にきはまることなり」と蓮如上人もおっしゃっています。高名な布教使さんには「追っかけ同行」もおみえになるとか…。仏法御聴聞が大切であることにはもちろん異論はありません。
 で、その後なのです。御聴聞して仏法が有り難いと感激し、喜ぶ…そうしたら私はどうすればよいのでしょう。
 そこからは報謝行となるといわれます。決まった行為があるわけではなく、仏法への感謝の営みは個人に委ねられるのです。ここが厳しいところです。自信教人信…自らが信じてその頂いたところ・喜びを他の人にも伝えていくことが大切ですが、それは仏法を伝えることに限られるのでしょうか。御同朋御同行の御教えからすれば、他の人と聞法の喜び・幸せを分かつべきだと思うのですが、それは具体的にはどういう形となるのでしょう。いわゆるボランティア的活動とは違うのでしょうか。自身がすくいに出遇ったよろこびの暮らしをすればそれで良いのでしょうか? 外からは何もしていないように見えても。悩みます…。

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【選択あるが故に】(『シティライフ』平成29年3月11日号掲載)

 「悩み」は何とか無くしたいものの代表です。例えば健康だった自分が病気になってしまった…本当に辛く、悩みは尽きません。元の健康な状態に戻りたいと思います。
 健康な状態と病気の状態がある。どちらを選ぶかは自分の自由のはず…なのに出来ない。そうしますと、悩みとは「選択の余地から生まれる」ものと言えそうです。 
 逆に言えば、もうこれしかないと思い定まれば悩みは生まれません。唯ひたすらその道を歩むしかないからです。人生には多くの選択肢があるようでいて、自分で自由に選べるものではありません。皆、殆どそうせざるを得ない状況に置かれて生きてきたのです。
 その事実に気付き、事実を受け入れて生きる道を勧めるのが仏様です。 いえ、私に気付かしめ、受け入れさせるのが仏のはたらきです。悩み苦しみ無い人生を歩ませたいが故の仏の決断でした。私に真実なる念仏の一本道を歩ませるのも仏のおはたらきなのです。

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【私の感覚の不確かさ】(弘教寺だより 平成29年3月号掲載)

 娘が、かつて私が申した「お化けなんか怖くないよ。本当に怖いのは生きている人間の方だよ」という言葉にいたく感じ入ったそうで、それ以来お化けは怖くないのだと言います。
 しかし、今もお化けや幽霊といった存在に恐怖心をお持ちのお方は少なくないと思います。死んだ後の世界は分かりません。『幽霊って本当にいるかも…』と思えばそれは怖いでしょう。でも同じように『幽霊って本当はあり得ないかも…』と考えれば、あれ、不思議?怖くない! そんな感覚ありませんか。人間の思い、感情なんてそんなもの、そんな程度のものなのです。
 浄土の世界、仏のいのちも私が「わかった」と言うべき性質の存在ではありません。それらはお釈迦様のお悟りの内容が人間の言語によって伝えられたものであり、「色も形もなく想像することすら出来ず、まして言葉で言い表すことなど出来ない」仏様を、何とか私に伝えようとして下された釈尊の御心を頂くことが大切です。分からなくて良い、信じなくて良い、ただなぜそのような仏様の世界が説かれたのかに思いを致して下さい。
 今現に苦しみの中生きてる私の為? その通りです…。

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