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【仏に任せる】(『シティライフ』平成30年7月14日号掲載)

 奥歯の被せ物が取れてしまい、歯科に掛かりました。内部には虫歯が進行していて、思いがけず治療が必要とのことです。今回は大したことは無かったのですが、これがもし…。でも、大事であろうと無かろうと歯科医にお任せは一緒です。大体、自分の歯でありながらその状態をよく知らない上に、自分では全く何とも出来ないのです。
 実は仏教も同じです。自分のことは自分で出来る、やるべきだと思っているけれど、自分の体調が悪化したときどうするか。その時は医師に任せよう…でも医師にもう治療法は無いと宣告されたら…その後は誰を、何を頼みとすべきでしょう。
 私が何ともならない時それでも任せよが仏様です。どうにもならぬと認め、仏を依り処として病は治らぬままにお任せしたところを仏法では「間に合った」と申します。お任せとは、出来ないことを出来ぬと気付き、今出来る範囲で自分のいのち精一杯を生き抜くこと。これ即ち仏道です。

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【応援すべきは…】(弘教寺だより 平成30年7月号掲載)

 サッカーワールドカップで盛り上がる中、入浴中に外を走る車から聞こえてきたのは懐かしいスマップの『世界に一つだけの花』でした。
「♪ナンバーワンにならなくてもいい もともと特別なオンリーワン…」という歌詞が印象的ですが、ならばスポーツの世界とこの歌は相性が悪いような気がしました。とても一番になれない、出来ない…そんな私は知らずに日本サッカーチームに夢を託しているのでしょうか。大体お釈迦様はスポーツをどのようにお考えだったのだろうと考えてしまいました。
 受け売りで恐縮ですが、釈尊の前世の物語を集めた「ジャータカ」にはタキシラで武術を学んだという記述があるそうです。たとえ武術であっても、自己の精神・肉体の鍛錬の為であれば有用だということでしょう。人を傷付ける為ではなく、ルールに則ってのスポーツは仏教的にも問題無いようです。
 サッカーチームもですが、それ以上にもっと大切な自分を応援しましょう。自分など…と遠慮されるお方を、仏様が応援して下さいます。応援どころか山坂だらけ、石ころだらけの人生を一緒に走り、時にはおぶって下さって、最後まで生き抜かせて下さるお方です。

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【毎日を精一杯生きる】(『シティライフ』平成30年6月9日号掲載)

 「歳を取ると何も良いことがない」…この発言こそは分別(煩悩)の極みです。確かに老化によって身体に様々な具合の悪いところが出てきます。嘆きたくもなるでしょう。でも、その時「私の身体よ、今まで長い間しっかり働いてくれて有り難う」という感謝を忘れていませんか。
 人生は長生き(量)だけではなく、生き方(質)が大事です。一日一日を大切に生き切ることです。今日一日生き長らえて有り難いと喜びながら眠りにつくのです。そして翌朝目覚めることが出来たら、そのことに又感謝する。一日一日の足し算こそが人生です…これらは田畑正久医師が講演で語られた内容です。
 毎日を精一杯生きるしかありません。それ以上は出来ないのだから、後は思い悩んでも仕方ないのです。我に任せよの阿弥陀という仏様を頼りとし、生きる。それは我が命、我が人生への無理なる執着を離れることです。しなくていい苦悩を抱え込まない道筋です。

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【死んでいける道】(弘教寺だより 平成30年6月号掲載)

 5月4日、三重の実家の寺の「寺号公称四百年記念法要」に参詣して参りました。もう、御門徒さん方誰も分かりません。相手もそうです。どこのお坊さん?状態でした。
 当日は佐々木大観氏が御法話をなされましたが、肝要を少しだけ…「人間、生きることへの問いがなくなると成長が止まる」「阿弥陀仏を有り難いと思わない人は、自分のことが分からない人…何故なら、阿弥陀様の中身は私で出来ているのだから(私が存在するが故にすくいが必要となり、その為に阿弥陀様という仏が現れた)」「念仏称えるときに、この念仏は仏様だ。私をすくうために来て下さっている仏様だと頂く。そうしたら安心が生まれる」「怖がらんでいい。極楽浄土に必ず連れて行くぞの阿弥陀様だ」等々。
 古臭い説教とお感じになりますか。でも、これが浄土真宗の教えそのものです。聞かなくても生きていけます。でも聞かなくて死んでいけますか? 自分の死を自分でちゃんと引き受けられるなら、仏教など必要ありません。仏教は教えですから、聞く気が無いと時間の無駄になります。死は避けて通れぬ道。どう迎えますか…逃げは許されません。

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【無財の七施】(『シティライフ』平成30年5月12日号掲載)

 布施(ふせ)とは他人に財物を施したり、相手に教えを説くなど「与えること」で、仏教における主要な行(実践)です。布施には「お坊さんへ」という限定はありません。財施にはお金だけでなく衣服や食料も含みます。
そして、大切なのが無財の七施です。①優しい目で人に接する ②穏やかな表情で人に接する ③優しい言葉で人に接し、挨拶を実践 ④自分に出来る奉仕 ⑤心配り。共に喜び悲しむ心 ⑥座席・場所を譲る。後進に地位を譲る ⑦来客を温かく迎える。様々な場所の掃除・整頓。これらの行為にはお金は掛かりません。でも実行には何となくためらいが…。
「あなたの苦しみは私の苦しみ。だから私はあなたに寄り添います」とは仏様。そんな尊いお慈悲の御心を頂けたとき、自身に感謝と歓喜が恵まれます。そしてそれこそがあなたを「他人ではない、同じような苦しみを抱えて必死に生きているお仲間」への温かな行為に向かわせるのです。

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【変わらぬなら、変えてしまえ?】(弘教寺だより 平成30年5月号掲載)

 僧侶である私は、内心の思いはあっても政治的発言は差し控えさせて頂いています。
 だから、一般論として申しますが、今の状況に一応満足しているなら、このままの政治で良いでしょうし、またこの状況を変えたいと思えば政治家に代わって欲しいと思うものです。現状を変えるに、手っ取り早く政治家代えてしまえ…となるのです。私達は自分の側を変えよう、自分が変わろうとは思わないのです。簡単な理由からです。それは大変で面倒だからです。
 自分は変わらずとも周囲を変えて、自分に都合の良い環境を作り上げればよい…頭の良い私達はそう考えます。この頭の良さこそを煩悩と申します。
 自分は変わりたくない。でも現実には諸行無常で、私の身体・心はこの瞬間にも変化しています。老いに向かい、死に向かっています。それこそは変えようのない事実です。政治に関心を持つことは大切です。そして、それにもまして御自身に興味を持って下さい。見据えて下さい。私は今生きている…だからこそ、しっかりと生きる義務と権利があります。仏様がそんな私に真の生きる道を明かします。

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【自分に向き合う】(『シティライフ』平成30年4月14日号掲載)

 噂が好き、人のことを考えるのが好きです。特に自分より大変そうな人のことを…心配しているフリをして、自分はまだ大丈夫と安心します。
 一方で、自分のことを考える、見つめることは大嫌いです。このままで大丈夫だろうかと不安になるからです。だから、自分のことだけど知らん顔を決め込みます。
『あなたはそのままでいいよ』…この言葉が好きです。聞けば何とも言えぬ幸福感に包まれます。自分について考える必要が無くなり、楽になるからです。しかし私がこのままでいい証拠はどこにも見つかりません。
 このままでは心配だからこそ、仏様は私を何とかしてやりたくて、苦悩からの解放(=さとり)をお約束下さいました。仏のすくいとは私の身の事実を我に気付かせ、仏を頼りとさせることで私自身への執着を離れさせることです。私の実体への気付き…それこそが仏教です。仏様の支えの下、自分に向き合ってこそ本当の安心が恵まれます。

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【ぬるくない人生】(弘教寺だより 平成30年4月号掲載)

 イルカは寝込むと溺れてしまいます…冗談ではありません。だから、なんと片側の目を閉じて脳の半球ずつ休ませるのだそうです。
渡り鳥も海上では同じようにして眠るそうです。その一方で、ネコや犬、そして動物園の動物には無防備に腹を晒して爆睡するものがいるようです。私を食べても良いよ…状態です。
安心だから、快適だから、楽だからでしょう…でも、どう考えても変です。自然界ではあり得ない寝相です。かく言う私も仰向けで寝ています。本来なら大事な又弱点の腹側を隠すように丸くなって寝るべきでしょう。この人間の、又人間に保護され、人間色に染まった動物たちの緩(ぬる)さは何なのでしょう。
仏教は緩くない教えです。釈尊も親鸞聖人も、一切の妥協をせずに、とにかく真摯(しんし)に生きたお方です。だからこそ自らが生くべき道を、命賭けて求め抜かれたのです。
私は楽のあまり、楽して仏に成れるような大きな勘違いをしています。私が仏に成るのは仏様のこの上ない御慈悲のおはたらきのお陰です。大切なことは、私の人生は緩くない、緩くないからこそ仏のおすくいが私に告げられた…この事実だけは忘れたくありません。

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【私の願い 仏の願い】(『シティライフ』平成30年3月10日号掲載)

 「私」はこの命をしっかり生きて、人に迷惑掛けず、苦しまずに死にたいと思っています。そうなればよいのですが、将来は全く分かりません。
ただ生きていれば老いていくことは確実です。嫌だなあ…老いは避けたい、でも避けられない。ならば、そこに意味を見出したいと思います。
 老いとは…若く健康であったときには全く気にしていなかった自分の身体の事実に気付くということです。若くて健康な自分が老い衰えていく…それは良し悪しでなく「自己都合を超えた事実」です。病もそうです。病んで初めて「生身の自分の存在」に思いが至り、人生と真剣に向き合う機会が与えられます。
 若く健康な自分とは単に人生の一時期に過ぎません。老いて病んで初めて弱き自分、即ち本当の自分を知らされます。
 そこに仏の願い(慈悲心)との出遇いが恵まれます。仏は私をさとらしめ、苦悩から解放したいのです。それを仏心、また「親心」と申します。

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【究極の平等】(弘教寺だより 平成30年3月号掲載)

 「三隣亡」(さんりんぼう)をご存じでしょうか…この日に起工式等を行うと三軒隣まで滅ぼしてしまうことになるそうで建築関係の大凶日だそうです。でも「三隣亡かつ大安の日」!があるのです。これはどう受け止めれば良いのでしょう。 吉凶…「何となく」気になりますか?
 障がい者、性的少数者、人種等多くの差別が今も存在します。差別が認められるわけはありません。それでも「差別する」ならば、調べ学んで、「根拠」「信念」をもってすべきでしょう。「何となく」差別するなんて、される方はたまったもんではありません。
 阿弥陀仏は、「何となく」私のおすくいを誓われたのではありません。私の心身の全てを見抜かれたが故に私を「必ず」「そのまま」すくう…浄土の仏と仕上げると約束せざるを得なかった仏様です。
 仏の眼差しには、私もあの人も全く同じに映っています。どうしたって心配ですくうしかない、このままでは何ともならない人間だとおっしゃいます。そして、皆が私の一人子だとおっしゃいます。そこには差別という言葉すら存在しません。おはたらきはまず私に届くのですが他の方にも同時です。究極の平等です。

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