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【責任を問わず…】(『シティライフ』令和元年9月14日号掲載)

 私に産まれてきたのはなぜでしょう。私がこのような容姿・能力なのはなぜでしょう。私が今の健康状態にあるのはなぜでしょう…答えが見つかりません。例えば能力だって、努力出来る環境が与えられなければ伸長・発揮出来ないのに…。
 最近流行の自己責任論に対抗して申します。「人生に自己責任はありません!」…無責任な暴言でしょうか。でも私もそうだし、あの人もそうなのです。今までなるべくしてこうなってきたのです。
 取れない責任を自分で取れといわれたら、悲しいし反抗したくなります。一方で他人には、行為の結果は引き受けるのが当然という「自業自得」目線を向ける私達です。
 阿弥陀仏は「あなたの責任は問わない。私があなたの苦悩を一緒に背負う」とおっしゃいます。念仏となって私にはたらき、寄り添い、支え続けて下さいます。そんな仏様の慈心こそが、この頑な我が心を溶かし、私に出来うる限りの行動へと導いて下さるのです。

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【生き方を聞く・学ぶ】(弘教寺だより 令和元年9月号掲載)

 布教使(講師)さんによっては御法座を和ますために、最初に「後でテストはしませんから、お楽に聞いて下さい」とおっしゃいます。(それを真に受けて?)どうもしっかりと御聴聞されないお方もいらっしゃるようです。
 「お寺は学校」です。「生き方を学ぶ場所」です。勉強は嫌いですか? でも正しい生き方は知っておいた方が良い…いえ知らないままではきちんと生きることは出来ないのです。「仏教」というくらいで「教え」なのです。私の知らないことを仏様に教えて頂くのです。
「ちゃんと生きたい、人生を見直したい」…お寺はそういう思いに応えられる場所ですし、そうありたいと思います。お寺に「自分を楽しませてくれ」とお越しになっても、ご期待に添えないことが多いと思います。
 「生きながら死んでいる」「ちゃんと生きることあきらめた」(過激な表現お許しを)…そうなっていませんか。皆が今まさに命の炎を燃やして生きています。人生の残り時間は毎秒減っています…無駄な時間など一秒もないのです。残された時間を本当に生きる為に、生き抜くために仏法に出遇って下さい。仏様の真のみ教えを御一緒にお聞きしましょう。

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【三泊四日】(『シティライフ』令和元年8月10日号掲載)

 お盆…故人様は13日に御自宅にお帰りになり、16日にあの世へお戻りになるのでしょうか。三泊四日を丁重にお持て成しすれば、きっと故人は満足するだろう…いいえ、仏様に成られた故人様はわずかの滞在では満足なさいません。
 仏様御自身は全てが満ち足りたお方。なのに満足出来ない原因は心配掛け通しの私の側にあります。つらい思いを抱えて、具合の悪くなる身体で必死に生きている…そんな私を「とても放っておけない」の仏様です。その仏様の思いは「はたらき」となり私に届いて下さっています…御念仏です。
 仏は私に寄り添い、私を支え続けて下さいます。そのおはたらきをしっかりと受け止められたら?…答えは「私に感謝の生活が恵まれる」です。
 見えないものは信じない私に、大きなはたらきの存在に気付き、感謝の人生を歩んで欲しい。感謝と共に生き、感謝の中で命終えて欲しい…それこそが真の人生だと教えて下さる仏様です。

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【阿弥陀に向き合う】(弘教寺だより 令和元年7月号掲載)

 「あの人、結局宗教に走ったのよね」…かつてウワサ話で多く聞いたセリフです。あまり良い意味での表現ではありませんが、その方の置かれた状況が察せられます。
 宗教に走った…走らないと間に合わないご事情があったのでしょう。苦しみがあったのでしょう。しかし、多くの場合、走ったその先は浄土真宗では無いようです。
 浄土真宗は走り込む対象にされていない…これはどういうことことなのでしょう。浄土真宗は宗教では無いと思われている?…誤解されやすいですが確かに「いわゆる『祈祷、願掛け、除災招福の』宗教」ではありません。
 宗教に駆け込んだら、駆け込む原因が解決するか…しません。それは浄土真宗であってもなくても同じです。問題はその問題に向き合わない限り解決しません。そうだなとは思いつつ、私達は問題とは正反対の方に走ることが多い…つまり逃げようとするのです。
 一人で問題に向き合うことは辛い…そのことを阿弥陀様は知っておられるから、私と一緒に問題に向き合って下さいます。まずは仏様に出遇って下さい。出来ればお寺にお越し下さい…共に解決策を考えていきましょう。

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【死の受容】(『シティライフ』令和元年7月13日号掲載)

 『もう治療法はありません』…そう宣告されたらどうしますか。諦めずに他の医師、他の治療法に望みを繋ぎますか。 
生への執着心は他の何よりも強いものです。しかし、不可能な生にこだわれば、苦悩は益々深まるばかりです。医療によって回復する見込みが無くなれば、死を受け入れるより他ありません…「私にはとても無理」。
 しかし死を受け入れたときに、私は初めて死の恐怖から解放されます。
阿弥陀という仏は、私が死を受け入れるには死して後の浄土、仏のいのちがどうしても必要だと見抜かれました。
 死が怖い…そんな私の心を見抜いて、仏様が私の死の問題を解決すると誓われました。その誓いを受け止められたときに死にきれる道が開けます。死を受容したとき、私はこの命を恐怖では無く、安らぎの中で生きていけます。死は決定済…ならば今死を受け止めて欲しい。そうすれば今の命を精一杯生ききれるだろう。仏様の願いです。

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【私を苦しめるもの】(弘教寺だより 令和元年6月号掲載)

 戦争でお亡くなりになったお方を数字で表現する非礼を先ずお詫びいたします。その上で…
 第二次世界大戦の死者数は日本が市民を含めて310万人だそうです。その多さに愕然としますが、一方で他国の死者数は、例えばドイツが689万人、中国が1321万人、ソ連が2060万人だそうです。驚くべき数字です。アメリカは市民は含まれず29万人(40万人とも)とのことです。
 アメリカは戦争勝利国ですから、死者数が少ないのですが、その後湾岸戦争で849人、イラク戦争で4404人、アフガン紛争で1751人が戦死しています(死者数はネットでの情報)。アメリカは強国であるが故に負けるわけにはいかず、戦争を辞さず、実際に兵士が命を落とし続けています。よその国のお話しとお感じですか。
 私は生まれました。今生きています。だから生き続けたいのです。生き続けなければならないのです。「生」しか受け入れない我が思いに支配されているからです。
 国も人が作り上げた以上、同じような存在となるのですね。結局、根本原因は我の持つ煩悩です。生きなきゃ、勝たなきゃ…この思いが我を生かしめ、一方で苦しめ続けます。仏様の慈愛が私に向けられる理由です。

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【用がある】(『シティライフ』令和元年6月8日号掲載)

 先日テレビ番組で「なぜ眠くなるとあくびが出るか」を検証していましたが、その実験の講師は「お坊さん」。実験参加者の感想は「有り難いお話しだとは思ったのですが…」でした。坊さんの説教は難しく退屈なものでしょう。又私はよく「そのうち御世話になります。ワハハ!」と言われます。今のところ、あんたに用は無いという意味と受け止めています。
 私に用が無くても構いません。ただ、仏様はあなたに用があるとおっしゃいます。何故なら「死」があなたに用があると言い続け、そんなあなたを仏様が心配なさっているからです。
 坊さんには葬儀の時に世話になる…でも自分の葬儀は自分では出来ません。葬儀をしてもらえるというのは自身の「思い込み」。死後は全てお任せするしかありません。
 仏様は「死」より前に「生」を説きます。死はわかりませんが、苦悩を抱えた私が今現に生きている。だからこそ今聞く教え…それが仏教です。

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【ともかくも生きていく】(弘教寺だより 令和元年5月号掲載)

 「もう、充分過ぎるほど生きました」そうおっしゃったお方がありました…生き辛さの吐露でしょうか。また一方で、「これ以上生きても、得るものもないだろう、人生やり尽くした」とお感じのお方もいらっしゃるようです。
 人生では様々なことに出遇います。もう試練としか言いようのないことも多いのです。想像を超えていろいろあって、だからこそ『奥深い』のが人生です。
 苦難多くとも、生きていくしかない…「そうなんだろうな」、「いや自分の命は自分で決める」。賜った命に対して自分で決断を下すことは出来ません。『とにかく今生きている』…確かなことはそれだけです。今生きているとは、「我以外のいのち」を奪い、消化している事実です。そんな私…だから大切にしましょう。命ある限り感謝しましょう。

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【知恩・報恩】(『シティライフ』令和元年5月11日号掲載)

 10連休GWも終わってしまいました。次は夏休みでしょうか。本当に待ち遠しい…でも大事なことが抜け落ちていませんか。疲れながらも懸命に生きている「今」です。
 私は未来が大好き。将来を、少なくとも少し先を見て生きようとします。それは大切なことでしょうが、将来ばかり思う者に今はありません。今無き者に、今の我が身を思うことは出来ないのです。当然、我が身に為されている多くのはたらきに気付くこともありません。そこに感謝が生まれるはずもないのです。
 仏教で「恩」とは「他より為されたこと」の意です。そこに気付けなければ、「恩知らず」の人生を生きることになります。
 徹底して今の自分を見つめる営みこそが仏教。今の我に対する数限りないはたらきがあり、その結果私が存在すると知る…これが「知恩」です。
 知恩とは対象への感謝の強制の為でなく、恩を知ることで私に「報恩(真実)の人生」が恵まれることこそが真意なのです。

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【感動を伝えること】(弘教寺だより 平成31年4月号掲載)

 この記事を御読み頂く頃には弘教寺本堂の外壁・屋根の御化粧直しが終了しているかも知れません。既にずいぶん綺麗になっています。塗装工事中は足場の設置などでご参詣のお方にご迷惑をお掛けしましたことを、遅まきながらここにお詫び申し上げます。
 工事には多くの職人さんが携わって下さいました。足場のパイプをまるで「浮き輪のように投げ上げ、受け取る」様子に、また屋根の上をひょいひょいと移動する大胆さと、窓や外灯、インターホン、そして鍵穴だけを避けて複雑な形状のドアレバーまで、本当にありとあらゆる全てを汚れ除けフィルムでラッピングする塗装工さんの繊細さに感動しました。つられて私も「感動を与えることの出来る僧侶になりたい」と一瞬思ったのでした。でも…。
 私に出来るのは「親鸞聖人の味わわれた仏法に出遇えた喜び・感動をお伝えする」ことのみです。聖人のご高徳になど及びもつきませんが、その同じ喜びを私も味わうことは出来るのです。そもそも、仏法を頂くとは、釈尊や親鸞聖人の御徳を偲び、御跡(みあと)を慕うことでもあります。聖人と同じ喜びを味わえるなんてドキドキしませんか?

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