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【基準は『私』】(『シティライフ』平成31年4月13日号掲載)

 希望に満ちあふれた新スタートを切りましたか? 又は失意の内に今の生活が始まってしまったのでしょうか?
 いずれにしても、夢一杯のお方はそんな自分が、そうでないお方はそうでない自分が新しい基準になりました。つまり、夢を叶えた人は自分の超えるべきハードルを上げたのです。悔いの残るお方も今後ハードルを上げようとするでしょう。
 自己のハードルを上げ続けるのが人間です。これが向上心ですが、仏教ではその心を煩悩と捉えます。結局は悩み苦しみの種だからです。
 私は生きている限り、より良い自分を目指し、せめて現状を維持しようとします。そう出来ればよいのですが、事実として私は老い病み死んでいく身。「向上は持続し得ない」が私の本質です。
 ハードルは上げなくても、越えなくても、横をすり抜けてもよい。仏様は私が作った窮屈な自分ルールを壊して下さいます。私は唯、私の人生を歩む…仏様が御一緒です。

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【立場の違い】(弘教寺だより 平成31年3月号掲載)

 介護講座にて、「介護の不安を語ろう」とのテーマで話合いの時間を持ちました。その際複数のお方から「子供が面倒を見てくれるだろうから心配していない」というご意見を伺いましたが、どうお感じになりますか? 「うらやましい」「私もそう思う」そして「ちょっと勘弁してほしい」という御声もありそうですね。
 介護について学んでいますと「財政的児童虐待」などという怖い言葉に出遭いました。現在の中高年が国からどんどん財政支出をさせることで、子や孫その先の世代に莫大な負債を押し付けることになるようです。「そんなこと言ったって、私は今大変なのよ」と言いたいお気持ちは分かります。でも五十年後、同じような発言をしても、社会がその方に何も出来ない状態になっている可能性があります。
 私には力がない→どうにも出来ない…その後なのです。出来ないのは事実だから仕方がない、その分は周囲がちゃんとやってくれ、当然の義務だろうと。一方で、出来なくて申し訳無い、ここまでやってもらえるのは真に有り難いことという受け止め方もあります。あなたはどちらに近いですか。御念仏申す者はどういう心持ちであるのだろうと思いますか?

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【仏法聴聞の意味】(『シティライフ』平成31年3月9日号掲載)

 寺社にてお賽銭を納めて願い事をする。それで願いが叶えば問題はありませんが、もし叶わなかったら?…方法はあります。お賽銭の額を増やして再度お願いしてみるのです。願いが叶うかも!という希望がある限り人は生きていけるのです。
これを煩悩と申します。望みを絶ったなら、「絶望」ということになるのでしょうが、仏教的には望みを持たないその状態を悟りと申します。 仏教は願い(煩悩)を断つことを教えます。希望を捨てれば、叶えられないと嘆くこともないからです。でも出来ますか?
 阿弥陀仏は私が願いを捨てられず、苦しむことを見抜かれたが為に、私に念仏を恵まれました。私を念仏申す身に育て上げ、悟りの完成した仏とせしめるとお誓い下されたのです。実は私が仏に南無(帰依)することも阿弥陀仏の仕事であり、既に仕上がっているのです。なぜ仏は「余計な御節介」までなされたのか、全て我が為と頂く迄聞き抜くのが仏法聴聞です。

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【折れない心】(弘教寺だより 平成31年2月号掲載)

 少し前に『市原市養老渓谷 とある温泉旅館…寂れたその旅館に再生請負人が乗り込んで最低限の費用を貸し出し、また自らが改装工事を行って旅館を蘇らせる!』といったテレビ番組がありました。その請負人の熱意・行動を見て、宿の女将さんが「こんなにも良くして下さって…もう今後いい加減なことは出来ない」と涙する姿が印象に残ったのです。
 それからしばらく時間が経ち、放映直後は盛況だったであろう旅館は今どうなっているのでしょう。そして一年後は…。
 「人を動かすのは人の心 人をすくうのは仏の心」でありましょう。すくいとは浄土の仏と生まれさせて頂くことであり、また私を見捨てない、支え続けるというおはたらきです。
 その支えにより、私は強靱な鉄の身体になる…のではなく、ヤナギになるのです。どんな強風にあおられようとも、枝葉が多少ちぎれ吹き飛ぼうとも「折れない」心を頂きます。
だって仏様が我をすくおうとされるおはたらきだって折れること無し、変わること無しなのですから。あの旅館が正に新緑のヤナギの如く、逆風にも負けずに心地良い温泉を提供し続けて下さることを念じています。

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【希望から感謝へ】(『シティライフ』平成31年2月9日号掲載)

 1月カレンダーにあった『あかるく楽しい一年になりますように』の言葉が無くなりました…希望と共に。いえ、消えていません…大丈夫です! なぜなら私に阿弥陀仏の智慧の光明が『明るく』降り注いで下さるからです。どんな状況下でも法楽楽(ほうがくらく)=仏法に出遇って恵まれる『楽しみ』を味わうことは出来ます。そんな明るさや楽しみには興味ないとおっしゃいますか?
 阿弥陀仏は私を可能な限り一番良い状態に、良い人間に仕上げたい仏様です。その為に私を明るく照らし、私が仏法に出遇い、仏法に則って生きることを望まれます。
 仏法により我が身の事実に気付かされたとき、私が仏のすくいの対象となる意味が頂けます。悟りの仏と仕上げられる有り難さが身に染みます。そこに「感謝の出来る人格」「感謝と共に生きる人生」が開かれるのです。感謝の人生とはまさに喜びの人生です。今この身この命を喜べる人生こそが無上の人生です。

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【仏を信じる】(弘教寺だより 平成31年1月号掲載)

 お金は信じます。仏様は信じられません?
 ネコはお金の価値が分かりません。一万円札より「チャオちゅ~る」(ネコのおやつ)に飛びつきます。人はお金の価値が分かりますから、紙幣を選びます。賢いからです。
 お金とは信用です。紙幣の価値を皆が信用することで流通しています。信用が無くなったら大変なことになりますが「あり得ない」わけではありません。ジンバブエ国で超インフレとなり、100兆ジンバブエドル紙幣(!)が日本円に換算すると0.3円位になったのは数年前です。信じていたお金に裏切られたのです。ネコはお金を信用しません。だからお金には目もくれず、目の前のエサを食べます。
 仏様を信じない私であっても、仏様は信じないままの私を「必ずすくうから任せよ。決して裏切らない」とおっしゃいます。…え、うそでしょ! それこそ信じられないよ…。
 仏教は「今」の「私」がしっかりと生きる為の教えです。「猫に小判」と笑う私を、仏様は「人に小判」と見られているのかも知れません。信ずるとは何か、何を依り処として生きるか…人生の大問題です。今年こそ仏教を聞いて下さいませ。人生の解がそこにあります。

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【生まれ変わり】(『シティライフ』平成31年1月12日号掲載)

 再び生まれ変わることについてお尋ねすると、多くのお方は「自分ではなく、別な人としてなら…」とおっしゃいます。
 その根底に、自分の人生はもういい、分かった。しかし「別な人生なら楽しく幸せな人生になるかも…」という思いががあるのでしょう。確かに『これぞ幸せな人生』と言えるものがあれば、それを求めたくなります。
 ただ人生には老病死の苦が付きまといます。人生の根本が苦なのですから、どんな人生を求めても、結局幸せにはなれないと結論付けたのが釈尊でした。だからこそ、その苦からの解放(さとり)を目指すのが仏教です。
 私は仏になど成りたくない。健康で長生きしたいだけ…でもそんな思いは満たされることは無く、したがって私の苦悩は無くなりません。
こんな私を捨て置けず、どうあっても仏に仕上げるとお誓い下さった仏様が阿弥陀仏です。我が人生を、喜びと感謝の人生へと転換せしめるおはたらきをお持ちです。

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【悟りの意味を知る】(弘教寺だより 平成30年12月号掲載)

 ニュートンは「リンゴが木から落ちるのを見て、万有引力を発見した」そうですが、私は「冷蔵庫の扉を開けた瞬間、惣菜が落ちて、悟りの意味を知った」のです。誤解しないで下さい…「悟った」とは申しておりません。
 何だ!冷蔵庫への仕舞い方が悪い!床だって汚れた。食べ物が勿体ない!誰だこんな仕舞い方をしたのは!が私(人間)の気持ちです。で、次の瞬間に「既に惣菜は落ちてしまい床は汚れた。掃除をするしかない。でも、まだパックの中に残っている方は大丈夫だ。いやこぼれた方も大丈夫かも知れない。そうじゃないかも知れない。捨てたら、お腹が空くし勿体ない。食べたらお腹を壊すかも知れない。どちらを選ぶのも自由だが、その結果は自分が引き受けることになる」…これです!
 釈尊は事実を見つめ続けたお方です。冷蔵庫に誰が仕舞ったかはどうでも良いことであって、それより今自分が直面している事実を見つめ、受け入れてその対処だけを考え、行動する。そこに犯人捜しは必要なく意味も無い。事実の前には立腹も何もありません。これがさとりです…「今の私には至ることの出来ない境地」です。

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【仏に遇う】(『シティライフ』平成30年12月8日号掲載)

 「故人は阿弥陀仏のはたらきにより、浄土に迎え取られ、仏と成られた」…浄土真宗の根幹です。
 でも愛する御家族に先立たれたお方が、仏ではなく以前のままでいて欲しいと願うのは自然です。仏になど成って欲しくない。だから御遺影が大切だし、何より生前の故人様との思い出を大切になされるのでしょう。
 御遺影は過去の御姿です。又想い出は我が心の働きですから、故人様の存在は私が握ることになります。心は移ろい易く、故人様を思う時間は減っていき、自分が辛いときだけ思い出したり…。
 故人様は今は仏様と頂きます。仏様は私の喜び・悲しみを、そのまま自身の喜び・悲しみとされるお方です。私の幸せを願い、その為に念仏となりて私に寄り添い、慈悲の御心のありったけをもって私の為にはたらき続けるお方です。そのお方は仏様であって過去の存在ではないのです。どうか仏様に出遇って下さいませ。総追悼法要『遇縁』への参拝をお待ちしています。

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【すまし顔で生きています】(弘教寺だより 平成30年11月号掲載)

 北九州市の砂防ダムに迷い込んで出られなくなっていたイノシシ2頭は2週間ぶりに捕獲、山へ帰されました。エサもなく弱ったところをカラスの大群に狙われている姿が放映される等注目されていましたから、「良かった」とほっとされたお方も多いことでしょう。しかし、この山には元からイノシシ捕獲(駆除)用の檻が設置されているそうです。
 動物愛護法という法律で動物は守られます。その法律が保護するのは「牛、馬、犬、猫 アヒル等」と、人が占有している哺乳類・鳥類・は虫類です。両生類以下の脊柱動物や無脊椎動物にはこの法律は適用されません。例えば金魚やクワガタなどにどんな残酷なことをしてもこの法律に触れることはありません(器物損壊罪の適用はあり得るそうです)。
 生き物を愛護すべきかどうかは人間が「感覚」で決めています。蚊やハエ、ゴキブリは「トった」と言います。使う漢字は分かりません。「殺した」とは言いません…言いたくないから。 これが私達の本性です。何かおかしいですが、深く考える事も無くすました顔して生きています。仏様が私を心配し続けるのは、それだけの理由が私の側にあるからです。

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