So-net無料ブログ作成

【悟りの意味を知る】(弘教寺だより 平成30年12月号掲載)

 ニュートンは「リンゴが木から落ちるのを見て、万有引力を発見した」そうですが、私は「冷蔵庫の扉を開けた瞬間、惣菜が落ちて、悟りの意味を知った」のです。誤解しないで下さい…「悟った」とは申しておりません。
 何だ!冷蔵庫への仕舞い方が悪い!床だって汚れた。食べ物が勿体ない!誰だこんな仕舞い方をしたのは!が私(人間)の気持ちです。で、次の瞬間に「既に惣菜は落ちてしまい床は汚れた。掃除をするしかない。でも、まだパックの中に残っている方は大丈夫だ。いやこぼれた方も大丈夫かも知れない。そうじゃないかも知れない。捨てたら、お腹が空くし勿体ない。食べたらお腹を壊すかも知れない。どちらを選ぶのも自由だが、その結果は自分が引き受けることになる」…これです!
 釈尊は事実を見つめ続けたお方です。冷蔵庫に誰が仕舞ったかはどうでも良いことであって、それより今自分が直面している事実を見つめ、受け入れてその対処だけを考え、行動する。そこに犯人捜しは必要なく意味も無い。事実の前には立腹も何もありません。これがさとりです…「今の私には至ることの出来ない境地」です。

共通テーマ:日記・雑感

【仏に遇う】(『シティライフ』平成30年12月8日号掲載)

 「故人は阿弥陀仏のはたらきにより、浄土に迎え取られ、仏と成られた」…浄土真宗の根幹です。
 でも愛する御家族に先立たれたお方が、仏ではなく以前のままでいて欲しいと願うのは自然です。仏になど成って欲しくない。だから御遺影が大切だし、何より生前の故人様との思い出を大切になされるのでしょう。
 御遺影は過去の御姿です。又想い出は我が心の働きですから、故人様の存在は私が握ることになります。心は移ろい易く、故人様を思う時間は減っていき、自分が辛いときだけ思い出したり…。
 故人様は今は仏様と頂きます。仏様は私の喜び・悲しみを、そのまま自身の喜び・悲しみとされるお方です。私の幸せを願い、その為に念仏となりて私に寄り添い、慈悲の御心のありったけをもって私の為にはたらき続けるお方です。そのお方は仏様であって過去の存在ではないのです。どうか仏様に出遇って下さいませ。総追悼法要『遇縁』への参拝をお待ちしています。

共通テーマ:日記・雑感

【すまし顔で生きています】(弘教寺だより 平成30年11月号掲載)

 北九州市の砂防ダムに迷い込んで出られなくなっていたイノシシ2頭は2週間ぶりに捕獲、山へ帰されました。エサもなく弱ったところをカラスの大群に狙われている姿が放映される等注目されていましたから、「良かった」とほっとされたお方も多いことでしょう。しかし、この山には元からイノシシ捕獲(駆除)用の檻が設置されているそうです。
 動物愛護法という法律で動物は守られます。その法律が保護するのは「牛、馬、犬、猫 アヒル等」と、人が占有している哺乳類・鳥類・は虫類です。両生類以下の脊柱動物や無脊椎動物にはこの法律は適用されません。例えば金魚やクワガタなどにどんな残酷なことをしてもこの法律に触れることはありません(器物損壊罪の適用はあり得るそうです)。
 生き物を愛護すべきかどうかは人間が「感覚」で決めています。蚊やハエ、ゴキブリは「トった」と言います。使う漢字は分かりません。「殺した」とは言いません…言いたくないから。 これが私達の本性です。何かおかしいですが、深く考える事も無くすました顔して生きています。仏様が私を心配し続けるのは、それだけの理由が私の側にあるからです。

共通テーマ:日記・雑感

【よみがえり】(『シティライフ』平成30年11月10日号掲載)

  海外では遺体の冷凍保存が既に行われているそうです。将来科学が発達し、蘇ることが出来るかも…との希望からです。
 問題は誰が蘇生を行ってくれるのか、また蘇生できても、そのままの状態では短命と思われるので治療や若返り術が必須になること、その費用を誰が払うのかということです。子孫に治療費を請求したら、新たな悲劇が起こるかも知れません。
 いやそれでも故人様に生き返って欲しいとの思いを捨て去れないお方もいらっしゃるでしょう。
 浄土真宗では、阿弥陀仏のはたらきにより、故人様は浄土の仏とお生まれである。そして既に仏として私の所にお帰りのお方と頂きます。今一緒に我が人生を歩んで下さっているのです。
 我が心は煩悩です。蘇生を願う気持ちも煩悩。そんな私を煩悩苦から離れさせる為に故人様は仏としてお帰り下さり、私を浄土の仏へと導いて下さいます。蘇生されなくても浄土で必ず仏同士再会させて頂けるのです。

共通テーマ:日記・雑感

【何もしない勇気?】(弘教寺だより 平成30年10月号掲載)

『65歳 何もしない勇気』(樋口裕一氏・著)という本が出版されました。新聞広告からの内容紹介で申し訳無いのですが、「我慢しない 無理しない」「運動しなくていい」「家族と理解し合わなくていい」「他人に従わなくていい」「自慢していい」「過去の栄光にしがみついていい」…「トシのせいにしていい」のだそうです。
 あぁなんて嬉しいことを言ってくれるのでしょうか…で、次の瞬間「えっ」と思いました。家族が友人がこんな思いだったらどうだろうか。『楽しいことだけする宣言!』されたら…。
「何もしない勇気」を持っても良いのです。でもそれは当然「何もしてもらわない勇気」と一体のものです。「私は何もせんよ。でもあんたにはいろいろとしてもらわないと困る」と年下の方になら言っても良いのでしょうか。そんなお方とお近付きになりたいですか。
出来ないことは出来ないのです。でもだからといって出来ないことはしなくても良いことにはなりません。出来ないことを人様にして頂くのなら、当然御礼を言うべきです。感謝をすべきです。そうです、この書に対する一番の違和感は感謝が欠落していることでした。これはお念仏のみ教えの対極の生き方です。

共通テーマ:日記・雑感

【自分を見つめる】(『シティライフ』平成30年9月8日号掲載)

 皆何かと不調を抱えているものです。そして自分の具合が悪い時こそ他人が気になります。幸せそうな人が羨ましくなります。逆に何かが起きたらしい人のウワサ話で盛り上がりたくなります。
 でも人様のことはもういいですよね。家族間でも余計な詮索・心配は止めておきましょう。その分、今の自分にしっかりと向き合いましょう。
 自分に出来ないこと、不安なことを数え上げたらキリがありません。それよりも、今の自分に出来ること、今しか出来ないことを考えませんか。
 死の間際に後悔するのは、必ず「やり残したこと」です。それも元々出来そうもないことではなく、行動を起こせば何とかなっていたかも知れないことの方でしょう。
 仏様は私の全てをお見抜きです。だからこそ私を後悔させたくなくて、我が思いを優しくサポートして下さっています。そんなおはたらきの中でこそ、自分を見つめることが出来ます。私の生くべき道が定まります。

共通テーマ:日記・雑感

【仏様との出遇い】(弘教寺だより 平成30年9月号掲載)

 坊さんは仏様を信じているなら、強がらないで仏様に願い事をすれば良いじゃないか…直接そんなご意見を伺ったことはありませんが、そうお考えのお方もいらっしゃるかも知れません。一つ申せることは、正確には「坊さんは仏様に願いごとをしただけでは叶わないことを信じている」のです。
 浄土真宗は仏様と出遇う教えです。それはそのまま、「仏様、本当のことを教えて下さい。聞きたいです。知りたいです」という自分との出遇いです。「もっとちゃんと生きよう、生き直そう、今から出来ることやろう」という自分との出遇いです。「真面目に一生懸命生きたいです」という思いを仏様は聞いてくださるのです。もちろん煩悩だらけの我が心は真面目に生きることを望みながら、一方で休もう、怠けようとばかり考えていますが…。
「このままでいい」と思う人には阿弥陀仏は要りません。仏は私に「そのままでいい」なんて一言もおっしゃっていません。ただ、「そのまますくう」とおっしゃい続けます。このまますくわれていくしか他に生きる道の無い私。だからこそ感謝の思いから、ほんの少しでも何かは出来るんじゃ無いかと思う私です。

共通テーマ:日記・雑感

【思考の偏り】(『シティライフ』平成30年8月11日号掲載)

 人は物事を客観的に見ていると思っていますが、実は様々な偏った見方をしているものです。例えば「あの人は雨男だ」「だから止めとけと言ったのに」「ここまで津波は来ないだろう」「行列の出来る店はやっぱり美味しいな」「このやり方であってるはずだ」等です。これを認知バイアスと言い、生きる上で少ない情報を基に素早い判断をするために必要なことなのだそうです。
 普段にそんな自分の思考の偏りに気付くことはありません。そして偏った判断が自分にマイナスをもたらしている可能性は容易に想像出来ます。
 この思考も我が本能です。そんな私に仏は告げられます…「何ともならないな」と。でもそんな御諭しを受け止めようともしない私です。
 私は自分が正しいと思う考え方を変えられない、それ故につらい思いをする。だから私の苦悩を一緒に背負うことを選択されたのが仏様です。仏の大慈悲心が今、私に届いて下さっています。

共通テーマ:日記・雑感

【他に任せない私】(弘教寺だより 平成30年8月号掲載)

 「我に任せよ 必ずすくう」が阿弥陀様の御本願(誓いと願い)です。有り難いことです…でもその喜びの心は「すくうとか言うんだから何とか大丈夫そうだ」ではありませんか。
 私は普通「任せる」ことなんかしません。よほど相手を信頼しないと任せるなんて出来るわけがありません。信頼出来る相手に出遇わないと私は頼ること、頼むことをしません。
信頼し任せることが出来る相手など、真剣に探し求めなければ一生出遇うことはないでしょう。そして、そんな相手に出遇えなければ…自分を頼みに、自分で自分の人生を生きることになります。実際「普通の人」は皆そうしています。「老病死丸抱えで、苦悩から逃れることも出来ない自分」を依り処として生きているのです。まだまだ自分は大丈夫だと言い聞かせて。いや恐ろしいから自身を見つめ、考えることを放棄して…。
 「我に任せよ 必ずすくう」を有り難いと鵜呑みにする前に、「あなたはどうにもならんからこそ、私 弥陀があなたの全てを引き受けた。任せなさい」とおっしゃったのだと頂くことが大事です。どうにもならない私の為にどうあってもすくうと弥陀は誓われたのです。

共通テーマ:日記・雑感

【仏に任せる】(『シティライフ』平成30年7月14日号掲載)

 奥歯の被せ物が取れてしまい、歯科に掛かりました。内部には虫歯が進行していて、思いがけず治療が必要とのことです。今回は大したことは無かったのですが、これがもし…。でも、大事であろうと無かろうと歯科医にお任せは一緒です。大体、自分の歯でありながらその状態をよく知らない上に、自分では全く何とも出来ないのです。
 実は仏教も同じです。自分のことは自分で出来る、やるべきだと思っているけれど、自分の体調が悪化したときどうするか。その時は医師に任せよう…でも医師にもう治療法は無いと宣告されたら…その後は誰を、何を頼みとすべきでしょう。
 私が何ともならない時それでも任せよが仏様です。どうにもならぬと認め、仏を依り処として病は治らぬままにお任せしたところを仏法では「間に合った」と申します。お任せとは、出来ないことを出来ぬと気付き、今出来る範囲で自分のいのち精一杯を生き抜くこと。これ即ち仏道です。

共通テーマ:日記・雑感